北前船で栄えた湊町 酒田

2020.11.24

江戸時代、酒田をはじめとする日本海の港や北海道の港から江戸や大阪に、米や魚、特産物などが船で運ばれていました。
船は津軽海峡を通り江戸へ向かう東廻り航路と瀬戸内海を通って大阪、江戸へ向かう西廻りの航路があり、西廻りの航路を走る船を北前船と呼ぶようになりました。東廻りの航路では太平洋側を北へ向かう黒潮の流れに逆らって進む必要があるため、西廻りの航路の方が荷物を安く運べ盛んに利用され、酒田は北前船の寄港地として「日本の中心!?」と言われるほど繁栄した歴史が随所に残っています。2018年9月29日放映の「ブラタモリ」でも取り上げられました!

「北前船」を見に行こう

北前船は単に荷物の運搬をしていたわけではなく、寄港地で安くて良い品物があれば買い、船の荷物に高く売れる物があればそこで売る。さまざまな商材を取り扱い「商売」をしながら日本海を航海する、まさに「総合商社」と言える船です。
また、北前船は「米を1千石(150トンの米)積むことができる大きさ」という意味から千石船ともよばれ、北前船史上最大の船は、2,400石も積むことができ、巨大な帆1枚で逆風でも進むことができる、すぐれた帆走性能のある船です。

北前船の国内最大1/2スケールの模型船が日和山公園で見ることができます!

一攫千金の北前船ドリーム

北前船で大阪と北海道を1往復すると、千両(今の価格で6,000万円~1億円)もの利益を得られたと言われています。お金を貯めて自分の船を持ち大金持ちになるということも夢ではありませんでした。
武士が頂点の身分制度がある時代でも、チャンスをつかむことのできる可能性はまさに北前船ドリーム。
多くの遭難記録が残されていますが「夢」を追う船乗りは絶えることはなく、成功者の功績と繁栄がいたるところで見ることができます。

井原西鶴の「日本永代蔵」に「北の国一番の米商人」と描かれた鐙屋や、日本一の大地主になった本間家の功績をたどるコースはいかがでしょうか。

文化も運んできた北前船

北前船は荷物と共に様々な文化も運びました。食文化でいうと北海道の上質な昆布によって、西日本では和食の基礎ができたと言っても過言ではありません。
酒田においては米以外に紅花を積み、帰りの荷には、その紅花で染められた雛人形や京友禅などの京の文化を運んできました。
「紅一升金一升」といわれるほど高値で取引され、一級品として名を馳せた出羽の紅花は、お米と並び酒田の商人に多大な富を築いたといわれています。
紅花染は酒田の民工芸品として有名です。
由緒ある雛人形を一斉展示

由緒ある雛人形を一斉展示

酒田の豪商たちは競って京都から豪華なお雛さまを買い、北前船の帰り荷に積みんだことから人形の数、質においては他の地域を圧倒する雛人形が酒田の旧家に残され保管されています。
酒田市では3月1日から4月3日まで「酒田雛街道」を開催しています。江戸時代の享保雛や古今雛などを10ケ所の観光施設等でご覧いただけます。

北前船で富を築いた豪商達も愛した料亭文化

江戸時代から酒田を代表する料亭であった「相馬屋」。木造の主屋は、1894(明治27年)の庄内大震災の大火で焼失してしまいましたが、残った土蔵を取り囲み、伝統に新しい息吹を加えて修復した「相馬樓」で、酒田舞娘の踊りやお食事を楽しみ、雛人形や古美術品の展示も見ることができます。
酒田舞娘の艶やかな踊り

酒田舞娘の艶やかな踊り

北前船による京都との往来により、酒田の町には京都(上方)文化が育まれ、酒田の花柳界では競って芸に磨きをかけ、江戸や上方にも知られるほどとなりました。
ここ「相馬樓」ではその酒田舞娘の艶やかな踊りを楽しむことができます。

北前船の繁栄から誕生した「酒田まつり」

酒田を領有した庄内藩は酒田奉行所を置きましたが行政の大半を「三十六人衆」と呼ばれる三十六家の廻船問屋、廻船宿に委ねました。
酒田は町人が中心となる、他の地域とは異なる自由の気風が溢れる町と言えます。
そして、その豪商たちが意地と粋を見せ、町に利益を返した祭りが、現代でも盛大に行われています。