未来永劫生き続ける神秘なる仏・・・即身仏

2020.11.24

以前は秘仏として地元の人々たち中心に崇められてきた即身仏。1973(昭和48)年に芥川賞を受賞した森敦の『月山』、近年では村上春樹の『騎士団長殺し』などの小説やミシュラン・グリーンガイド・ジャポンに掲載されたことで、その存在を初めて知ったという人々が国内だけではなく、海外からも大勢訪れています。今なお生き続け、人々の祈りを見守ってきた即身仏巡礼に出かけてみませんか?

即身仏とは・・・?

江戸時代初期以降、飢饉や病に苦しむ人々がたくさんいました。そのような人々の苦しみや悩みを代行して救うために修行に挑み、自らの体を捧げて仏となられた方を即身仏といいます。即身仏になろうと決めたら途中で投げ出すことは許されず、修行に耐え抜いた者のみが即身仏になることができました。
即身仏となられた現在でも、人々の苦しみを沈めるために祈ってくださっていることでしょう。明治時代に法律が変わり、いくつかの法に違反してしまうため、現在では自ら望んでも即身仏になることはできません。大変貴重な仏様なのです。

即身仏になるための修行とは、どんな修行だっだの?

即身仏になるための修行は、大きく分けて「木食修行(もくじきしゅぎょう)」「土中入定(どちゅうにゅうじょう)」の2つです。
「木食修行」は、山に籠り、1,000日~5,000日かけて米・麦・豆・ヒエ・粟などの五穀・十穀を絶ち、山に育つ木の実や山草だけで過ごして肉体の脂肪分を落とし、生きている間から即身仏に近い状態に体をつくりあげていく修行です。
「土中入定」は、命の限界が近づいたと自ら悟ると、深さ約3mのたて穴(入定塚)の石室の中に籠ります。その中では断食を行い、鈴を鳴らし、お経を読み続ける最後の修行です。
死後3年3ヶ月後に掘り起こされ、若干の手当をしてから乾燥させ即身仏として安置されます。

※画像提供:海向寺

即身仏ってミイラとは違うの?

即身仏ってミイラでしょう?というご質問をよくいただきますが、実は全く異なります。
一般的にミイラは死後、身体の腐敗を防ぐために人工的に臓器を取り除いて防腐処理を行い、乾燥させ、布でくるんで棺に収められます。人工的に加工されていること、布でくるむことが大きな違いですが、即身仏になるために難行苦行と言われる修行に耐え抜かれたことがミイラとの最も大きな違いです。

即身仏が安置されている寺院:砂高山 海向寺

【忠海上人】【円明海上人】

海向寺には、忠海上人(ちゅうかいしょうにん)円明海上人(えんみょうかいしょうにん)の2体の即身仏が安置されています。複数の即身仏を安置しているのは全国で唯一、ここだけです。

忠海上人は、元禄10(1697)年、山形県鶴岡市鳥居町の庄内藩の武家 富樫条右衛門家で生まれました。中興初代住職として、延喜3(1746)年に海向寺の中興を成し遂げました。50歳になると、人々の苦しみを救い、願いを叶えるために自ら木食行者となって即身仏になることを決意され、難行苦行の道へ進まれました。宝暦5(1755)年2月21日、58歳で土中入定し、即身仏となられました。

円明海上人は、明和4(1767)年、山形県東田川郡栄村家根合(現山形県東田川郡庄内町家根合)の佐藤六兵衛家に生まれました。海向寺九世住職を経て、50歳で即身仏になることを決意されました。湯殿山仙人沢に籠り、五穀断ち・十穀断ちの難行苦行に耐え、文政5(1822)年5月8日、55歳で土中入定し、即身仏となられました。

即身仏に関する貴重な資料を公開

海向寺には、修行時に身に着けていた法衣や法具、第八世住職の鉄門海上人の書など、大変貴重な資料が展示されています。(鉄門海上人は、鶴岡市の注連寺に安置されています。)即身仏になられることを決めた鉄門海上人の熱意や修行がどれほど厳しく苦しいものだったか伝わってくるような空間です。